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2014年11月14日 (金)

私の不登校記・No10より

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高島市社会福祉協議会広報に記載されている、
末富晶さんのエッセイ「私の不登校記」を、
紹介させていただきます。
晶さん、ありがとうございます。
No10が届きました。
No9の記事はこちら
(「私の不登校記」でカテゴリー作らなあきませんね。(^-^; )
「ある〜日、森のなか〜♪」にひとり入って行った、
太郎はんの写真を添えて・・・。
(クマさんには出会いませんでした。)
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では、
「私の不登校記No10」より。
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不登校をしても良かったと思えることの一つに、
何よりそうしなければ
関わりを持つことがなかっただろう人たちとの出会いがあります。
もちろん学校へ行っていれば
また違った出会いがあったのだろうと思いますが、
行っていなければ行っていない時間の中で、
別の出会いが待っていてくれるものなのです。
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「学校に行きたくないという気持ちを
尊重したい」
と 言ってくれた小学校6年生の時の
担任の先生は、
学校の先生でありながら、
学校に行っていたら
縁はなかっただろうなと思える人の一人です。
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.
.
ヒゲを生やしたこのおっちゃんの先生は、
私の担任となってから
度々我が家を訪れてくれるようになりました。
コーヒー片手に
数時間はいろいろな話をするというスタイルが定着し、
それはその後何年も続くこととなったのです。
学校の外で合うからでしょうか。
私は先生のことを先生というよりも
一人の人間だと思って話をしていたし、
先生も私のことを生徒というよりも、
一人の12歳の人だと思って向き合ってくれていたようでした。
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目の前の相手を
肩書きや見た目のあれこれを外して
「一人の人間だ」と思って向き合う時、
そこには「心地よいまっすぐなやり取り」
が、生まれるような気がします。
おっちゃん先生と少女が真剣に向かい合って、
どんな話をしていたのか。
過去に戻れるなら、
そばでもう一度聞いてみたいものです。
                     末富晶
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というわけで、
「センセイ」という言葉はクセモノですね。
「センセイ」になったら、
学校出ても「センセイ」、
散歩してても、「センセイ」、
買い物行ってても「センセイ」、
家でごろごろしてても「センセイ」、
ラーメン食べに行ってても「センセイ」、
飲み会行って酔っぱらってても「センセイ」(@Д@;・・・・。
何十人何百人もの生徒から、「センセイ」と呼ばれ、
生徒じゃない人からも、「センセイ」と呼ばれ、
同じセンセイからも、「センセイ」と呼ばれ、
ご近所さんからも、「センセイ」と呼ばれ、
引退しても、「センセイ」と呼ばれ・・・・。
日本では、
ずっとつきまといますね。
この呼び名。
ちょっとおかしくないですか?
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わたしは、
過去に、「センセイ」とも呼ばれるような職場で、
働いていたのですが(学校ではありません)、
そこの職員たちのほとんどが、
「センセイ」と、呼び合うことを、
はっきりと拒否していました。
園生と職員と、お互いで教え教えられ、
育て育てられている生活の場でもあり、
そこに、師弟関係は存在しないということ。
そして、
職員同士まで「センセイ」と呼び合う必要は全く無いということ。
保護者の方からも、「センセイ」と呼ばれる必要もない。
「○○さん」って呼び合うのでじゅうぶんやん。
簡単に言うと、こんなことです。
それが当たり前になってくると、
「センセイ」と呼び合うってのが、
なんだか、気色ワルー┐(´д`)┌ってかんじさえなってきます。
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センセイと生徒と、
学校では、
立場をはっきりとさせといた方が、
いいのかも知れませんけど、
フリースクールでは、
教える立場の人を、
「センセイ」とは呼ばないでしょう。
(そいういうふうに呼んでいるの、聞いたことないなあ・・・。)
センセイと呼ばないことによって、
気楽で、のびのびと、学び合える関係が築けるものかも知れません。
毎日、毎日、
何回も何百回も、何千回も、
子どもからも大人からも、
「センセイ」と呼ばれて生きている人は、
「センセイ」というお面が顔に張り付いていて、
もう外せなくなってるかも知れませんね。
お面が張り付いてることすら、
気づいてない人も、
忘れてしまっている人もいるかも知れません。
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そうなってしまったことで、
素のままの自分以上に、
何かいらんものをぎょーさんくっつけているセンセイ、
けっこういるかも知れません。
「〜しなきゃ!」
「〜べき!」
で、
頭の中いっぱいのセンセイ(*^m^)。
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わたし、
センセイとお話する機会もちょこちょこありますが、
ふとした瞬間に、
「センセイ」のお面が、外れてしまって、
普通の姉ちゃんや普通のおっちゃんになってしまうセンセイもおられます。
そんなとき、
その人のありのままの人柄というか、
本当の気持ちが、にじみ出てきて、
晶さんの言われる、
心地良いまっすぐなやり取り」が、
生まれるように思います。
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子どもらからみて、
素敵なセンセイ、かっこいいセンセイ、魅力的なセンセイ、
おもろいセンセイ、気持ちを打ち明けられるセンセイ、
辛いときに甘えられるセンセイ、
一緒にいたいセンセイetc・・・
というのは、
きっとセンセイのお面が、
ひらひらと、テキトーなかんじでくっついてて、
素の顔が見え隠れしてるようなセンセイやと思います。
「わたくしは、
この道○十年、
教師ひとすじでやってまいりました!」
という、
真面目一本のセンセイよりも、
テキトーなときに仮面外して、
自分らしさを大切にできるセンセイの方が、
子どもらひとりひとりの気持ちを、
大切にできるセンセイになれるかも知れませんね。
晶さんは、
そんなセンセイに、
学校へ行かなくなったからこそ、
出会えたのですね☆

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