ネパール子連れ旅*思い出し日記

2009年7月30日 (木)

ネパール子連れ旅思い出し日記*旅の仲間とホームスクーリングと。

9歳の風歌、6歳の太郎、3歳の光、
そして、夫ハルフミと、私の5人連れの旅。

2年前のタイ旅行は、光ちゃんはもっと幼くて、
おしめを洗いながら、おっぱいをあげながらの旅だった。

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そして、よちよち歩きで、ところかまわず突進して行く彼から、
目が離せない旅でもあった。(たいへんでした!)

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そんな2年前の旅に比べたら、
今回の旅での、親の負担はずいぶん楽になったと思う。
(リラックスしすぎて、子供に迷惑をかけてしまったが。)
彼は今、3歳になり、おむつもおっぱいも、晴れて卒業。
足腰もしっかりしてきたし、赤ん坊の時と違って、日本語ならばちゃんと通じる。(笑)
インドは厳しいかも知れないけれど、なんとか、この国だったら大丈夫だろうと、
ネパール行きは決まったのだった。

旅の途中から、
風歌は 旅行記を書き始めた。

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ホームスクーラーである彼は、
これまで、文章を書くことを、ろくにして無かったというのに、
こんなに 生き生きとして、ユーモアのあるものを書けるなんて、驚きだった。
いつの間に、こんな能力を身に付けていたんだろう?
長い旅の、一つ一つの場面を、思い出し、
(消しゴムも使わずに)ペンで一気に書き下ろす作業に、
最後まで 取り組んだ。

そして、まだ十分に読み書きができなかった太郎君は、
旅の間に、自力で文字を習得し、

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(↑太郎流、国語と算数のべんきょー。)

漫画まで描いていて驚かされた。
行く先々で、スケッチもしていた。

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24時間中17時間が停電であるこの国で、
ろうそくや、懐中電灯の明かりを頼りに、一生懸命何かを描いていた太郎君。
どの漫画も、食事のシーンに集結しているところが、
食いしん坊の太郎君らしい。

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(↑「これでもか!」と言うくらい、同じようなシーンが出てきますねー。)

飛行機の中では、ジュースが飲み放題。
ごはんも、可愛らしくセットになって出てくることが、
よほど、うれしかったのだろうな。
経験したこと、感じたこと、願望(?)を、
思い立ったら即、絵で表現できる太郎君を、
私は、うらやましく思う。

風歌の旅行記や、太郎くんの絵の数々。
子供たちが、こんな素敵な旅の副産物を生んでくれるとは、
思いも寄らなかった。
おかげで、旅の楽しみが倍増した。

長い旅に出られることも、
その後、たっぷり時間をかけて、一つのことに、
取り組めることも、
ホームスクーリングをしているからこそ、だと思う。
そして、今回の旅では、
学校へ行かずに、好きなことばかりしていたら、
身につかないのではないか・・・と、思われているような、
社会性、協調性、忍耐力、適応力、判断力などなど、
(確か昔の通知表の評価項目に、こんなのが並んでいたっけ?)
そういったようなものが、いつの間にかしっかりと、身についていたことに、
驚かされた。

なーんだ、彼らは、
自分の力で学び、日々の暮らしや旅の中で、
生きていく為に必要なものを身につけ、
ちゃーんと、個性豊かに成長して行っているではないか。

この3人の子供たち。
途中でくじけてしまったとは言え、
ダルバートを、来る日も来る日も、飽きずに食べてくれた、
ボロボロの宿でも、

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ボロボロのバスでも、粗末な食事でも、
井戸水や水シャワーでも、停電も、当たり前に受け入れていた、この子たち。

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(もしかして、我が家の暮らしと、そんなに違わなかった?)
どこに行っても、誰と会っても、言葉が通じなくても臆することなく、
自然体なこの子たちは、
すばらしい、旅の仲間たちだった。

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最後に、語学好きで社交的。
食欲旺盛で(これが裏目に出ることもある。)、力持ちで、
マメに動いてくれる夫、
ハルフミさんは、頼もしい旅の最強のパートナーで、
私たち夫婦は、旅の最強のコンビだと、(日常生活では???ですが。)
自負しております。(笑)

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これからも、家族として出会ったこの縁を、フルに活用し、
今、このときに楽しめることを、思い切り味わいたいと思う。

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2009年7月29日 (水)

ネパール子連れ旅思い出し日記*山の家へ帰って来た。

山の空気はおいしい。
澄んだ川のせせらぎを聴いて、
春の匂いのする風に吹かれていると、
身体の中まで入り込んでしまったネパールの土ぼこりが、
洗い流されるようだ。
なんて、清々しいのだろう。

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「車の中で長靴に履き替え、
雪の山を、シャベルで掻き分けながら、玄関に辿り着く。」
というのを、想定し、
覚悟していたのだけど、

ああ、よかった。
雪はほとんどない。
出発前は、少しでも、雪の量を減らしておかなくてはと、
一掻き、一掻き、すくっては、雪を河原まで運び続けたあの苦労が嘘のよう。

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(↑出発前の、うちの村。)

この時期に、土が見えるなんてねえ。

子供らは、
車からおりると、
家の中へは入らずに、
ふきのとうを、探しにどこかへ消えて行った。

ああ、やっぱり日本が好きやわあ。
と、風歌。

土鍋&七輪で炊いたごはん。
畑で抜いてきた、人参と大根のサラダ、みそ汁。
ふきのとう味噌。
菜の花の梅肉和え。

味噌、醤油、酢、梅干・・・・。
癒されるう~~~~。
(当分、油抜きがええなあ。)

「メロ、ジャパニ、カナ、マンパルチャ。」
(わたしは、日本の料理が好き。)
と、風歌は、片言のネパール語(単語を並べただけやな。)で、
太郎と、じゃれあっている。
「タパイ、デレイデレイ、カナ、ワクワクラギョ。」
(あんた、ようけ、食べ過ぎ。吐き気がするやろ?)
と、太郎に言っておる。
そうや、あんたは、食あたりしては吐くし、
調子に乗って食べ過ぎては吐くし、ほんま、たいへんやったな。
食欲が無かったこの2人も、復活。
光ちゃんの、帰国してからのピーピーシャーシャーは、無くなり、
懐かしい薪ストーブの煙の匂いに包まれて、
機嫌良く、それぞれやりたいことを、始めた。
風歌は、
ネパール滞在中も、
牛の糞を踏んだり、
村のいじめっ子に追いかけられたり、
ボールの取り合いをして、ちん○ん蹴られて、泣かされたり、
(だいたい、あんたがケチやからやられたんやで。)
道ばたで遊んでいた子供たちの仲間入りしたり、
指がぼろぼろに擦り剥けたりしながら、
いつでも、どこでも、相手ができたらサッカーをしていたが、
今は、豆炭ごたつで、温まりながら、
新聞のサッカーの記事を読んだり、
各国のユニフォームを調べようとしたり、
風歌流に、極めていくようなかんじだ。
(ホームスクーリング的には、これも立派な学習となる。)
そんな姿を見ていると、何日か前には、
ネパールで、当たり前のように暮らしていたことが、
夢だったように思える。

それにしても、
我が家をとりまく、景色の美しいこと。
山からの、ちょっと湿り気のある風の心地よいこと。
湧き水が幾筋も、幾筋も集まって大きな清らかな流れとなった、安曇川。

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ネパールでは、
あますとこなく、食べるため生きるために山は耕され、樹ヶは伐採され、
私から見ても、あと何年もつだろうかと、不安になるほど、
山の緑は少なく荒れていた。

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乾期だったこともあるだろうが、そんな殺伐と乾ききった山を見ると、
自分の身体も乾ききってしまいそうだった。
それに比べて、目の前に広がる山々の、豊かで潤いのあること。
たとえ杉山でも、ネパールに比べたら、緑豊かに感じる。

私たちは、こんな美しい山里に帰って来られた。
さあ、味噌を仕込み、薪を割り、新しい春を迎える準備をしよう。
ネパールの旅と同じように、
ここでの日々の暮らしも、けっこう、驚きと刺激に満ちているのだ。
旅は、今も続いている。
(人生とは、旅のようなもの。)

この先私たちに、
どんなハプニングが起こったとしても、
両手を広げてそれを、受け入れよう。

ネパールの旅で、そうしてきたようにね!

その先には、これまで見たことの無いような、
ワクワクするような、世界が広がっていると、信じて。

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2009年7月26日 (日)

ネパール子連れ旅思い出し日記*終りの日々2

カンチュウさんから 晩御飯のお誘いがあったとき、
風歌は嫌だという顔を 露骨に見せた。
最後だからこそ、大好きなお店「桃太郎」で、
和食を食べるのを、とても楽しみにしていたのだ。

その気持ちは、痛いほどよーくわかった。
彼らは、もうダルバートや、
マサラ味のものは、もううんざり。
受け付けられなくなっているのだ。
私だって、できることなら、
「桃太郎」の、手打ちの麺で、自家製のお揚げの入ったきつねうどんやら、
チャンポン麺やら、食べたかったもん・・・。

だけど、恩のあるカンチュウさんのお誘いは、
大人の私には、どうしても断れなかった。
カンチュウさんとのご縁のおかげで、
チョウダリの村で、あんなすばらしい経験ができたわけだし、
この日を逃したら、次は何年先に会えるかわからない。(会えないかも知れない。)
そして、カンチュウさんは、私たちを
彼の家族が住んでいるところへ、案内できるこの日を、
ずっと楽しみにしていてくれたのだ。

子供たちを、説き伏せて(子供たち、ごめんね。)

その夜は、付き合ってもらったのだが、
風歌は あれだけ嫌がっていたくせに、
案外イケルと思ったのか、ダルバートを食べていた。

それが、悪かったのか、
翌日は、「桃太郎」へ行く最後のチャンスだったのに、
食欲が全く無いようで、太郎君と共に、自ら「行かへん」と言った。
あんなに、楽しみにしていたのに、
食いしん坊のこの子たちの方から、行かないと言うなんて、
よほどのことだ。
「ほんまに、行かへんの?」
何度も聞いてしまった。
(というわけで、最後の「桃太郎」へは、
後ろ髪引かれる思いで、残り元気な3人だけで行った。)

そして、風歌は、この後の帰路、
バンコクでの待ち時間に下痢、嘔吐で苦労することになる。
人前で、吐いてしまったり、
空港のトイレで一人、延々と座っていたり、惨めな思いをしただろうに、
ベソかいたり、泣き言を言うようなことは、一切無く、
素直に淡々と、笑顔まで見せて、振舞っていて、
私は、感心してしまった。

ごめんなあ・・・・。
ダルバートは、嫌だ!って、あれだけ言っていたのに、
私は、カンチュウさんの気持ちの方をを優先してしまった。
頑張ってそのダルバートを食べてくれて、この始末だ。
やっぱり、何よりも子供の気持ちを優先するべきだったかと、反省した。

一方、太郎くんは、
このところの、食欲不振のせいで、
まるい顔のはずが、尖ったアゴの逆三角形になってしまった。
痩せてしまったんだなあ・・・。

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子供たちの体調が冴えないまま、
私たちは、ネパールを飛び立った。
(光ちゃん一人は、いよいよ帰るのだということが理解できたのか、ご機嫌だった。)

まだまだ、行きたかった所、
やりたかった事が残っていて、名残惜しい気持ちもあるけれど、
3人の幼い子供たちと共に、
笑ったり、びっくりしたり、泣いたり、怒ったり、感激したり、
めくるめく、色とりどり、精一杯の40日間だった。

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(光ちゃんは別として)風歌と太郎は、どんなに体調が悪くても、
村の子供にいじめられて、怖い思いをしても、
一度も「日本に帰りたい」とは、言わなかった。

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旅の途中に、子供たち全員から、口を揃えてそんなセリフ言われたら、
母ちゃんは、本当に困ってしまうところだったが、
最後まで、付き合ってくれて、ありがとう。感謝しています。

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そして、旅をしていたら、楽しいことばかりじゃない、
これまで、経験したこともない種類の、
辛いこと、理不尽なこと、嫌なこと、、、いっぱいあったけど、
様々な場面で、子供らが乗り越えてゆき、
行く先々で、出会いを楽しみ、言葉は通じなくても、対等に付き合い、
または、可愛がってもらいながら、
一丁前の旅人となってゆく姿に、
感心しました。はい。

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なぜ、こんな苦労させてまで、
子供たちを連れて旅をするのか・・・・。

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日本とは、全く違った景色、町や村、生き物たち、食べ物、匂い、
何でも、一緒に見て感じたい。
日本では、あまり見られなくなった、
人の知恵に溢れた手づくりの暮らし。

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車や機械に頼らない、手足そして、五感を精一杯使う暮らし。
そんな、昔ながらの、美しい暮らしに、触れてみたい。

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図鑑じゃなくて、テレビでもなくて、
リアルに、世界は広いと、感じたい。

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そして、私は旅をする中で、
幼い子供たちに、伝えいのだ。
世界には、様々な人がいて、
様々な暮らしや習慣が、あるのだと。
日本で「あたりまえ」「正しい」と思っていることが、
よその国では、通用しないどころか、
全く反対の考え方をしていたりするものだ。
その違いに、共にびっくりしたり、唖然としたり、
困ったり、面白がったりしながらも、それを、受け入れてみたい。

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そして、やっぱり、
顔も言葉も習慣も違っても、仲良くなれるということを、体験したい。

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違うからこそ、世界は面白く、人々は美しいのだと。

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理屈ではなく、
彼らのその柔らかい感性で、しっかり感じて欲しいのだ。

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そんな、美しいものと、スリルと、笑いと涙に満ちた旅を、
家族みんなで 体験できるというのは、
なんて、幸せなことだろう。

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ネパール子連れ旅思い出し日記*終りの日々1

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思えば、この旅は、
ダルバートで始まり、今、ダルバートで終わろうとしている。

旅の最後の晩御飯は、
カンチュウさんのお兄さん「プルナさん」のアパートに招かれた。
プルナさんは、10代で村を出てからは、様々な職業を経て、苦労を重ね、
今は、和食のコックのベテランとなり、
レストラン「桃太郎」の店長として、若いスタッフをまとめている。
彼のアパートは広々として、台所にはガスコンロもあれば、
ホットシャワーの設備もあり、テレビやゲームもあって、
なかなか、裕福そうに見えた。
近所にある、カンチュウさんの小さなアパートや、
アンビカのやっている、小さな仕立て屋さん、

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そして建設中の、プルナさんとカンチュウさん兄弟の
二世帯住宅も、案内してもらった。
仲良し兄弟の夢が一杯詰まった大きな家が、
数ヵ月後に、完成すると言う。
がんばって、日本やカトマンドウで働いて稼いで、
こうやって、家族みんなで住める家ができるのだな。
カンチュウさん、おめでとう。

そして今、テーブルに置かれたダルバートを、
しみじみ眺める。
これが、最後のダルバート・・・。
そう思うと、胸がいっぱいになる。

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ジャガイモとキャベツの炒め煮。
高菜炒め。
大根の漬物。
ダルスープ。
パラパラの白いご飯。
チョウダリの郷土料理デイグリもあった。
どこへ行っても、だいたいお決まりのメニューだけど、
これは、私たちのために、辛さを控えた、やさしい味のダルバート。

ホスト役の、カンチュウさんが、
うれしそうに、私たちを眺めてくれている。

ありがとう。
カンチュウさん。
ありがとう、家族のみなさん。
ありがとう。
旅で出会った人たち・・・。

感謝の気持ちでいっぱいになる。

**

このアパートには、
子供たちが、たくさんいた。
みんな「桃太郎」のスタッフの子供たちだと言う。

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「桃太郎」のスタッフは、皆チョウダリ族だ。
店ののオーナーが、あるチョウダリの村を支援しており、
若者たちに、雇用の機会を提供しているのだ。
(チョウダリ族が、レストラン業に就くというのは、
厳しいカースト制度の下では、とても珍しいことだと聞いた。)

彼らは、カトマンドウの郊外で、お互いが近所に住み、
チョウダリの村のように、子育ても、祭事も、共に行い、
助け合って、暮らしているようだ。

しかし、カンチュウさんのように、都会で暮らすようになった若者たちは、
子供をあまり作っていない。
その代わり、1人か2人の子供らのために、
お金をかけて、しっかりと学校教育を受けさせ、
ゲームなどの高価なおもちゃや、西欧風の服なんかを、買い揃えている。
実際、都会の子供たちは、早朝から夕方まで、学校や塾でみっちり勉強していたし、
以前来た時のように、伝統的なこの国の衣装を、普段着にしている少年少女は、
見られなくなっていた。

子供たちが、都会的なセンスを身につけて、高学歴であるほど、
幸福な将来は保証されていると、考えられているのかも知れない。

学校へ一応行ってはいるものの、
野良仕事や家の仕事の方を優先しているように見えた、
チョウダリの村の人たちとは、
大きな、ギャップがある。

それでも、
土の家ではなく、アパート暮らしの、ここの人たちは、
年世帯か集まれば、大家族になるし、
村の、なつかしい食べ物を作ったり、何かを祝ったり、
お年寄りはいないものの、何やかんやと集まって、にぎやかに暮らしているようだ。
一人っ子や、二人兄弟の子供たちも、
みんな集まれば、たくさんの妹や弟、お兄さんやお姉さんとなる。
可愛がってくれる、叔父さんや叔母さんもいっぱいいる。
父親が出稼ぎで不在の、母子家庭でも、
そんな共同生活の中で、サポートし合って、暮らしているのだ。
同郷、同族であるという、結びつきは強い。
(日本も、昔はそうだっただろう。)

村でも、カトマンドウでも、
こうやって、子供たちは、色々な大人たちに、可愛がられる。
そんな中で、育った人たちは、
また、自分の子でも、よその子でも可愛がることができる、
大人へと成長してゆくのかも知れない。

ネパール最後の夜。
最後のダルバートを食べながら、
子供をとりまく家族のあり方、社会のあり方の お手本を、
都会や村で暮らすチョウダリの人たちの中にしみじみと、感じた。

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2009年7月22日 (水)

ネパール思い出し日記*<おまけ>カンチャ

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(↑バンコクにて。)

末っ子の男の子のことを、ネパール語でカンチャと言う。
我が家のカンチャ、光ちゃんは、
ずっと、ホームシック状態だった。

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旅の概念が、まだ理解できない年齢なのだろう。

いつ家に帰るのだろう?
なんで、家に帰らないのだろう?
家は、どこにあるんだろう?
ここは、どこなんだろう?

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3歳児である光ちゃんにとっての40日間というのは、
大人のそれと比べて、とてつもなく、長く
もしかしたら、永遠に続くようにさえ感じられたのかも知れない。

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光ちゃんが、一番おチビさんで可愛いからか、
どこへ行っても、ネパールのおばさんたちが ちょっかいを出してくる。
これも、光ちゃんにとって、ありがた迷惑だったようだ。

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田舎に行くほど、言葉も荒く、顔も濃くなってくるようだが、
そんな顔で、覗き込まれて、にったり笑われたり、
強引に、抱かれたりするのは、
光ちゃんには、耐え難かったのだろう。
彫りが深く、鼻輪や耳輪を付け、おでこには赤いテイカがべたっと付いていて、
眼の周りは黒く塗られたおばさんたちは、
もしかしたら、不気味な魔女のように見えたのかも知れない。
(ネパールのおばさんたち、ごめんなさい。)

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そんなわけで、
朝起きると第一声が、「早くお家に帰ろうよ~~。」
退屈になると、「早くお家に帰ろうよ~~。」
都合の悪いことがあって泣き出すと、「早くお家に帰ろうよ~~。」

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ポカラに滞在していた頃から、毎日のように、連発されるが、
聞いてあげられないだけに、せつなくなる。

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以前タイを旅したとき、
彼はまだ一歳でヨチヨチ歩きの赤ん坊だったが、
こんなんじゃなかった。
3人の中で、一番やる気まんまん、何でも見てやるぞ!と、
パワー全開の、
たのもしい、小さな旅人だったのに。

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(↑2007年タイにて。)
3歳になり、肉体的にも、精神的にもしっかりして、
さらに、パワフルになって、旅をエンジョイしてくれると期待していたのに、
まるで赤ちゃんに返ってしまったように、
抱っこ、抱っこだった。

今思えば、一歳の旅のときは、
おっぱいが、あったから、がんばれたのだ。
母ちゃんが行くところ・・・というよりも、おっぱいがあるところなら、
あとは、何もいりまへん。どこでも、行きまっせー!

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(↑2007年タイにて。)

おっぱいが、すべてのよりどころだったのだ。(たぶんね。)

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(↑2007年タイにて。)

旅の直前に おっぱいを卒業してしまった光ちゃんにとって、
おっぱい無しで、過激なこの国を旅するのは、
試練だったのかも知れない。

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そんな彼だったが、
今、日本に帰って何ヶ月もたっているというのに、
毎日ネパールの話をしてくるのである。
毎日!


「村に、豚がいたなあ。おっぱい飲んでたなあ。」
「サローズとふうちゃんと太郎くんと、寝てたなあ。」
「カンチュウさん、どうしてるかなあ。」
「バス、よう揺れてたなあ。」
「人を 焼いてたなあ。」
「川で 洗濯してたなあ。」
「象に乗ったなあ。」
「光ちゃんの、ぞうりが落ちたなあ。」
「飛行機に乗って、また遠いところ行こうなあ。」

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旅していたときに、
見たこと、感じたことを、
ゆっくり、時間をかけて反芻し、言語化している。

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(↑とーちゃんの足に掴まって、○んちタイム。)

彼なりに、精一杯、見て、歩いて、感じて、味わっていたのだろう。
細かいことまで、口にするので、驚かされる。

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幼い子を、旅に連れて行ってもすぐ忘れてしまうのだろうと
言われるが、
そうでも無いかも知れない。
子供たちの記憶のどこかには、
旅の思い出の小さなカケラが、
褪せることなく、息づいているかも知れない。
もしかしたら、10年も20年もたった頃、
そのカケラが、ふとしたきっかけで光を放つかも。
なーんちゃって。

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光ちゃんが、そのうちに、ネパールのことを、口に出さなくなって、
時は過ぎ、大きくなっても、
私は、3歳だった時の、キミの立派な旅人ぶりを、
しっかり、覚えておくからね。

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2009年7月20日 (月)

ネパール子連れ旅思い出し日記*パシュパテイナート

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ネパールで一番大きなヒンドウ教のお寺のある聖地パシュパテイナート。
広い敷地の中に、鹿や猿が群れをなす森もあり、
延々と続く白い石段を登れば、あちこちに、無数の小さなお寺が建ち並んでいた。

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石段の隅には、物乞いの人、指が無いひと、足が無い人、つぶれたような顔の人など
変わった風貌の人たちが、影のようにうずくまっていて、
通り行く人たちに、手を伸ばしている。
前もって参道で両替しておいた小銭を、
子供たちが、その手のひらに配りながら登っていった。

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10日くらい前に、
シバラトリイという、シバ神の誕生日を祝う、
大きなお祭りがあったので、
(ネパールじゅうから、そしてインドからもサドウが大集合する。)
その名残か、
バジャン(お祈りの歌)が大音響で流れ、
広場に、奇妙で滑稽な姿かたちのサドウのグループがいくつかあって、
「スパッスパッスッパーッ」と、
煙をもうもうと出して、
大麻をまわしておった。
皆さん、ニコニコとして楽しそうだったなあ。
この雰囲気はとてもインド的。
インドの聖地を思い出す。懐かしいなあ。

境内に入ると、
塀のむこうから、白い煙がどんどん流れてきて、
「ん?バーベキューの匂いとそっくりの匂い。」

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いえいえ、
遺体を焼いているのでした。
ガンジスの支流だという、バグマテイ川沿いに、
いくつも、火葬台があり、
3体くらい、火葬中。
そのまわりを、犬が物欲しそうにうろついている、、。
ああ、この匂いは、焼き肉の匂いと全く同じではないか。
(当たり前やな。ヒトも、トリもブタも、同じほ乳類の肉やから。)


ますますわたしは、肉食べられへんなあ。
共食いしてるのと、同じやんか。
と、このとき痛切に感じた。

頭から脳みそがトロン。
あばら骨の中からも、内蔵がトロリ。
お世話をしているおじさんが、
棒で、ひっくり返して、
うつぶせにして、お尻の方も、お腹の方も、
ぐいぐいと、押しながら両面しっかりと
焼いている。
半ナマやから、ジュージューと音をたてて。

そんな火葬ガートのすぐ横を、
煙に巻かれながら、
学校帰りの子供たちが、楽しそうに通り抜けている。

匂いに敏感になっている太郎くんが、
鼻を押さえて、吐きそうだと言う。
あっ、間に合わない。
吐いてしまった。
どこかへ連れて行かなければ、、。
すぐ近くに、水が流れているところがあり、
そこで、思い切り吐いた。

ここは、刺激が強すぎるよなあ。

風歌は、今度は、燃やしはじめから見てみたいと言うが、
太郎くんがもう限界のようなので、
そろそろ、火葬ガートからは離れる。

お寺のあちこちにも、
裸同然で、白塗りだったり、
ドレッドスタイルの髪の毛が、腰まで伸びていたりする、
筋金入りのラスタマンのような、
サドウ(行者さん。)が、いて、
みんなハッピーな顔して、寛いでいる。

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結婚の報告参りのようなことをしている、
おめでたいムードに包まれた一団もあった。

この川の下流では、
ガンジス川のように、
普通に、洗濯やら水浴びがされているんだろうな。

日本では、考えられない感覚だ。
葬式場と、結婚式場と、通学路と洗濯場と沐浴場が、
ひとつながりになっているなんて。

今思えば、パシュパテイナートへ通じる参道は、
お供え用の、色とりどりの花飾りで溢れていたが、
まるで、それは、生も死も、等しく、祝福されているかのような、
華やかさがあった。

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生と死が、暮らしの中にむき出しになっている国。
それは、目から耳から、鼻から、五感に容赦なく迫ってくる。

旅の最後の日に、子供たちと、この世界に少しでも触れられて良かったと思う。

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(↑生と死の混沌とした光景が描かれている、太郎くんの絵。)

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ネパール子連れ旅思い出し日記*フリーチベット!

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旅の始め。
ボーダナートにて。
屋上の眺めが抜群の、チベタンレストランで
ごはんを食べる。
スタッフのお兄ちゃんはチベット人。
ヒマラヤを越えてやってきて、
ご両親は、チベットで暮らしている。
自分は、インドのダラムサラの学校を出て、
現在はここで働いているという。
ヒマラヤを越えたことも、
親と一緒に暮らせないことも、
当たり前のように、
さらりと言う。

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その後、
たまたまベンチで隣に座ってきたお姉さん、
「ヒマラヤを越えて来たのよ。
 あの、ヒマラヤよ。わかる?
 たいへんだったよ。」
と、話してくれる。
ご両親はやはりチベットで。
ずっと会ってないという。
さらりと言う。

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しかし、さらりと言われた私は、
胸が傷む。
何て返せばいいのだろう。

命懸けのヒマラヤ越えも、両親と離れ離れだということも、

まだテイーンエイジャーの彼らにとって、

どんなに辛く、厳しい現実かと思うが、

この、ふっきれたような明るさは、何だろう。

なぜ、こんなに強く、生きられるのだろう。

「私達日本人、、、私の友達たち、
 みんな、チベットのことを思ってるよ。
 日本では、
 北京オリンピックのときに、
 大きなデモもありました。
 今、たくさんの日本の若者が、
 チベットの自由と平和を願っているんだよ。
 本当に、心から願っているよ。私も。」

と、心をこめて、言う。

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「そう、私も、日本であったそのデモのことは知っている。
 ああ、わたしは、チベットに住んでいる時に通っていた、
 中国人の学校では、
 戦争で日本人は中国人をいっぱい殺してひどいことをしたのだということを、
 毎日聞かされていたよ。毎日!
 でもね。
 ○○さんという日本人の友達ができて、
 彼は、それは嘘だと言っていたから、
 今はそれを信じているの。」

 ええっ?そうなんや。毎日聞かされていたなんて。
 でも、日本が中国に ひどい事をしたのは、本当のこと。
 だから、○○さんが、嘘だと言い切るのは、
 どういう根拠があるのかわからないが、
 私のつたない英語では、そのことをうまく説明できなかった。

ああ、チベット!
毎年、どれだけの子供たちが、
あのヒマラヤを越えて、やってくるのだろう。

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**    **      **

旅の終わり。
知り合いのつてで、
チベットの子供たちの孤児院を創立したという、
日本人の女性Cさんに会った。
きっとチベットの民族衣装に身を包み、

チベット人にすっかり同化されているのではと、思っていたが、

全然。
すらりとしたジーパン姿の美人でした!
チベットに惹かれ、
チベットのお坊さんと結婚して、子供さんもいるが、
なんと、その彼は今、8年間の瞑想の修行中だとか。
チベットの道無き山を馬で3日もかかる山のお寺の、洞窟で。
残りあと6年だって。
(しかも、連絡のしようも無いので生きているかどうかさえお互いわからない。)

ひえ~~~っ。
すごい境地やなあ。
夫が、家庭を置いて、山の中で、8年間も修行中なんて、
私には考えられない。
人間の器の大きさが、違うのか。
精神のレベルが、全然違うのか。

Cさんは、
カイラス山脈で暮らしていた、
孤児や極貧の子供を呼び寄せて、
安心して暮らせるホームを建てられた。

http://www.tcp-np.com/index.html

わたしたちがホームを訪ねると、

丸坊主の(シラミ対策。)、太郎くんと光ちゃんの間くらいのちびっこが、
10人くらい、
わらわらと集まってきた。
わたしたちじゃなくて、
このホームのお母さん役の、Cさんのもとに。
それぞれ、
「待ってたよう。」
「どこに行ってたんだよう。」
「あのねえ、今日ねえ。。。」
と、言う感じで、一斉におしゃべりが始まってる。
その光景をみるだけで、
なんだか、泣けてしまった。
子供たちの全身から、Cさんが大好きなのだということが、
伝わってくる。
Cさんは、笑顔でその一人一人に、応えている。

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はるか彼方の、カイラス山脈。
聞けば、この子たちの住まいは、
石を積み上げ、草で葺いただけの小屋で、
布団さえも無いという。
子供たちは、老人のような手をして、
家の仕事をしていたそうだ。

このホームへ来て、
家や親が恋しくなって泣く子は一人もいないというから驚く。

美味しい食べ物と、
きれいな服と、
温かい布団があるから、ここが好き。
感謝。感謝。

と言うんだって。
太郎くんより、小さなこの子たちが。

ひもじくて、寒くて、疲れて、どうしようもなくなると、
お母さんと一緒にいるよりも、
ただただ、食べるものと、温かい寝床を求めるようになるのか。
生きるために。
それほどにまで、
辛かったのか。
追いつめられていたのか。

(どんな状況でも、幼い子供は母親を求めるものだと思っていた私は甘かったか。)

想像を絶する。

「子供たちは、死んだら生まれ変わるということも知っています。
 死んでも終わりではないと知っています。
 そして、人はみな死ぬのだということも知っています。
 それは、明日かも知れないし、もっと先かも知れない。
 だからこそ、今日に感謝して生きています。」

とCさん。
チベット仏教の教えが、
生まれる前からしみついているこの幼い子たちは、
そうやって、
いつも「感謝。」「感謝。」と言うのだって。
ネパールの孤児院の子供たちが、年頃になってグレてしまうケースが多いらしいが、
チベタンの子供たちは、
このチベット仏教の教えが、
すべての根っこにあるので、まっすぐに育ってくれるのだとも。
(なかには、例外はあろうが。)

へえーー。

仏教の教えがあるからこそ、
山の暮らしの厳しさや貧しさ、
命がけの山越え、
チベットのおかれた理不尽な境遇にも耐えられるというわけか。


このホームとは別に、Cさんは、
トレーニングセンターの設立の準備もすすめている。
それは、大きくなった子供たちが、
社会で自立して働けるようなスキルを身につけるための、
職業訓練校のようなものだと思う。

このホームから見えるところには、
チベット亡命政府があった。
命からがらヒマラヤを越えたチベット人たちは、
まずここを目指すそうだ。
その後インドのダラムサラにある、ダライラマが建てた学校へ行くことになるらしい。
ここにも、
ダライラマが建てた、
とても立派な宿舎と学校があった。

亡命してきたチベット人たちにとって、ネパールは、
ダライラマのいるインドよりも、
気候的、人間の気質的にも住みやすく、
また戻ってくる人も多いと聞いた。

その証拠に、
幟(のぼり)や、タルチョ(お経が書かれた旗)の、飾られた家が、
カトマンドウでも、ポカラでも、
あちこち、ほんとうに、そこらじゅうに、、、見られる。
これを、受け入れている、ネパール人の寛容さも、すごいなあと思ったのだが、
実際には、ネパールは、中国に依存している国であり、
ネパール警察は、チベットの人の宗教的な活動を、
厳しく規制していると言う。

Cさん。
点滴を打ちながらも、チベットの子供たちのために奔走しておられる。
私と同じ年だけど、

全く異なる人生を歩いている2人が、
ここで会った縁を感じる。
チベットの、
あの薄い、薄い空気。
澄み渡った空気。
その空気にまるごと身体が触れた瞬間に、
彼女の人生は変わっていった。
(そういうふうに言っておられた。)
私はチベットへ行ったことがないし、
その、空気が薄い世界、どこまでも空が蒼い世界は、経験してみないとわからない。
どんな感覚なのだろう?
人生をすっかり変えてしまうほどの、強烈な感覚とは。

トレッキングで間近にみたあのヒマラヤの山々のむこうには、
どんな世界が広がっているのだろう。
私の心を惹き付けてやまない、ヒマラヤ。山岳民族の暮らし、、、。

「では、是非、次はチベットへ行ってみてください。」
、、、と、言われたが、、。
(あんな、過酷そうなところ、自信が無い。)

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2009年7月19日 (日)

ネパール子連れ旅思い出し日記*<おまけ>マイラのこと。

ネパール語で、次男のことをマイラという。
太郎くんは、よく「マイラ」と呼ばれていた。

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3人兄弟の真ん中というのは、
周りを見ても、なぜか
ちょっと異色のキャラクターだったりするが、
我が家のマイラ、太郎くんにしてもそうだ。
どこがどう、他の2人と違うのだと聞かれても、困るけど。
服の着こなし(パンツをはかない主義)、
食いしん坊ぶり、反抗ぶり、開き直りぶり、怠けぶり、

おねしょぶり(→おっとこれはマイラだけでは無かった。)
頑固ぶり、怖がりぶり、などなど、
母親の予想を超えた行動に出ることがあり、
しばしば、私を楽しませてくれる。(?)
他人にも、その魅力が通じるのかどうかわからんが、
案外、旅先で人気者だったりして・・・・。

また、兄貴と弟にはさまれ、上からも下からも抑圧?を受けて、
しばしば泣きべそをかいているのも、マイラの特徴でもある。

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旅の間も、わが道を行くマイラ。
例えば、みんなで出かける時も、
「一人で留守番しとく。」と言う。
見知らぬ外国の宿で、
心細くならへんかな・・・?と、
気にしつつ、帰ってみたら、宿の台所で、
ちゃっかり、サモサをもらっていたりする。

始めから下心があったのか無かったのか、
次男というのは、要領がいいのか、
喰いっぱぐれることは 無さそうだ。

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(↑ポカラの「桃太郎」で、おこぼれを狙っている?)

そんな、マイラが、
ポカラの宿の主人ドーモさんは、
可愛いくてたまらないようで、
べっぴんさんで、秀才の愛娘シカを、
お嫁にどうやと、言ってくるほどだ。
(ほんま、かいなー。)

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夜中に、屋上でマイラ太郎は、
ドーモさんの晩酌のお供をしていた。
時々、ご愛嬌で、ビールを、一口もらったりして。

マイラ太郎は、ドーモさんのプライベートルームも、
出入り自由のようだった。

そして、ドーモさんが誘ってくれる。
「○○まで、お客さんを送りに行くんだけど、
マイラも連れて行っていい?」
「空港で、お客さんをハンテイングしてくるんだけど、
マイラも連れて行っていい?」

太郎くんは、ご機嫌で
ドーモさんの助手席に座り、仕事のお供をするのである。
途中、ちゃっかりジュースやパンを買ってもらったりして。

チョウダリの村へ行くときは、
「マイラだけ、置いて言ってもいいよ!」
と、何度も、言ってくれた。
(本当に、置いて行って欲しそうだったなあ。)

カトマンドウへ帰るときは、
「マイラは、ここで、ぼくたちと一緒に暮らそう!」
(本当に、一緒に暮らしたそうだったなあ。)

いよいよ、ポカラのバスターミナルでお別れのとき、
ドーモさんの目は、うるうるしていた。

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(↑マイラ太郎に、寄り添うようにしているドーモさん。)

ドーモさん、子供たちを いっぱい可愛がってくれてありがとう。


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ネパール子連れ旅*思い出し日記*さよならポカラ

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ポカラでは、自然と早起きになる。
朝焼けに染まるヒマラヤが一番きれいだからだ。
その時間に、
フェア湖のほとりから、
白鷺たちが次々と、山の方へ渡って行くのが見られる。
こんなに、たくさんの鷺がどこに棲んでいるのだろうかと思うくらいに、
果てしなく、その渡りが見られる。
カトマンドウでは、カラスの飛翔が見られたが、
ポカラの白い鷺と、カトマンドウの黒いカラスと、
なんだか象徴的である。

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(↑太郎くん作。鷺の飛翔。)

今日も、鷺の飛翔の中で、
ヒマラヤを眺めた。
マチャプチャレや、アンナプルナの山頂あたりに、
雪煙が舞っているのが見える。
昨日は嵐だったのだろう。
私たちが、トレッキングしたときと同じだ。
嵐の後の、空気は澄み渡り、
山がひときわ、クリアに見えるのだ。
ああ、もっと近くで見たい・・・。

う・・・・ん、
どうしようかな、行こうかな、やめとこかな。やっぱり思い切って行こうかな。

迷った末、ハルフミさんが大通りまで ひとっ走りし、
タクシーの運ちゃんと、話をつけて、
急遽、サランコットまで行ってくることにした。

子供たちに召集をかけ、
小さなタクシーに乗り込む。
サランコットは、京都側から眺める比叡山にそっくりな形をしていて、

昔初めて見たときに驚いたものだ。

1600m近くの山・・・なんだけど、ポカラでは

サランコットの「丘」と言われている。

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(↑マチャプチャレの手前に見えるなだらかな山がサランコット。)

山頂近くで車を降りて、しばらく登る。
日が高くなるにつれて、
ヒマラヤのシルエットが薄くなってしまうのだが、
完全なパノラマで見ることができた。

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ここらに住んでいる人が、
「今日は、特別にきれいだ」と言っていた。

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これで見納め。
もう、思い残すことはない。
(でも、名残惜しい・・・。)

父ちゃん母ちゃんは、
旅の終りを、切に感じ、
ヒマラヤも、もう見られないと思うと、
センチメンタルな気分で、いつまでも眺めていたい気持ちだが、
子供たちは、いい加減に早く帰ろうという感じである。

はいはい、わかったよー、帰りましょう。

帰ってから、
京都のじいちゃんにメールを書いた。

「帰国して食べたいもの。
 ごはん。
 味噌汁(わかめや、お揚げが入ったもの。
 もずく。(酢のきいたものに飢えている。
 青菜の胡麻和え。
 生野菜。+豆腐。
 ごま豆腐、納豆
 以上、よろしくお願いしまーす。」

えへへ。
ばあちゃんの家で食べるお決まりのメニュー。
こういうのが、食べたいんだよな~。
昼は、うどんで、
夜は、ちらし寿司とか、ええやろなあ。。
よだれがっ、、、。

そして、あくる日は、カトマンドウへ移動する日。
(バスで8時間は、ちょろい、ちょろい。)
その朝も、
ヒマラヤに、雪煙が舞っていた。
雲一つない空。すばらしい眺め。
まるで、見送ってくれるみたいだねと、子供たちと話す。
今度こそ、本当に見納めだ。

最後の瞬間まで、見せてくれてありがとう。

バスパークに着いても、
いつまでもいつまでも、見ていた。
さようなら、ポカラ!
さようなら、出会った人たち! ありがとう!

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ネパール子連れ旅思い出し日記*ポカラな日々

ポカラへ帰って来てから、
子供たちは、ダルバートを食べるのを嫌がった。
食堂で食べるダルバートは、
村で食べていた家庭の味と違って、何か癖があり、
私も食べる気がしなかった。

海外までやって来て、日本食を食べるなんぞ、邪道や!
その土地のものを食べるべしという考えだったが、
胃袋が悲鳴を上げていて、
背に腹は変えられないということで、
日本食を作ってくれる食堂を利用するようになった。

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と言っても、
薄汚くて暗いキッチンで、
父ちゃん母ちゃんが、レジ係、
息子たちがコックで、
近所の子供がお手伝い、というような家族経営で、
日本食=高級というイメージからはちょっと離れているような
庶民的な匂いのぷんぷんする店。

ここだと、普通の日本食レストランに行くのより、
半分以下の出費に抑えられる。
おまけに、日本の漫画がいっぱいあるから、とても助かった。
なぜならば、
この店は、注文してから、料理が出てくるまで、
少なくとも一時間以上はかかるのだが、
(ネパールではこれが普通なんだけど。)
ここでは、子供たちが、漫画に夢中になってくれているおかげで、
「まだか~~~??」
「お腹すいた~~~!!」
「いつ、できるん~~?」
イライライライラ・・・・・。
と、いうような事態に、なんとかならずに済むからだ。

風歌は、なんとか銀牙とかいう闘犬の漫画にはまってしまい、
食事が終わって私たちが帰った後も、
一人残って、居座っていた。
夜には、ろうそくをつけてもらって、読みふけり、
そのあと、歩いて15分くらいの道のりを、一人で帰ってきたり、
知り合いと一緒に帰ってきたり。
まるで漫画喫茶のように使っている。

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あるときは、
太郎と2人で、
「とうー みっくすべじたぶる かれー
 わん ぷれーん らいす 
 のー ちり、ぷりーず」
(野菜カレー2つ、白ご飯1つ、辛くせんといて。)
と、メモして、
残り物用に、タッパーを持参し、
自分らだけで、食べに行った。
そうです、
もう、カレーはええわと言っていたのが、
この食堂へ来るようになって、
また、カレー好きが復活。
食べられるようになったみたい。
(でも、カレーとダルバートは違うらしい。)
よかったなあ。

このアットホームな店は、
味噌が自家製と聞いてびっくり。
とても味噌を作っているとは思えない顔ぶれ?なのだが・・・。
日本とは風土が全く違うこの国で、
よくまあ、味噌を仕込み、保存しているものだと、感心する。
話を聴くと、虫が涌いたりして、試行錯誤のようだった。

だけど、ここの、混じりっけの無い味噌スープは、
京都のそこらの店よりも、ずっといい味が出ている。
私も、ずいぶん癒された。
味噌汁の力はすごい!
味噌に惹かれて、私たちはこの店に通った。

そのうちに、ちょっとずうずうしい注文もするようになった。
例えば、チベットの手打ちヌードル「テントウク」を、
味噌仕立てにしてほしいと頼んでみた。
出来上がりは、私の両親の故郷大分のだんご汁にそっくりになった。
光ちゃんも、この「味噌テントウク」は、
お気に入りになり、その後も彼の定番となった。

または、茄子と肉の味噌炒めを、
肉抜きで、茄子以外の野菜も入れてして欲しいと頼むと、
これまた美味しく、ヘルシーな野菜たっぷりの味噌炒めが。

結局、スパイスの代わりに、味噌で味付けしてくれるってだけで、
日本食というものが、できあがるのだ。

日本では食いしん坊のわが子たちに、
食べすぎの心配をすることが多かったが、
(特に太郎くん。)
ここでは、とにかく子供たちが、いっぱい食べてくれることが、
うれしい。

よかった。
こうやって、
すこしずつ、
すこしずつ、
胃袋も、元気になってきている。

よかった。よかった。

自分なりのポカラの楽しみ方を、心得た風歌たちは、
お気に入りの食パンを、自分らで買いに行ったり、
顔見知りのチャイ屋に、2人で行ったり、
宿で一緒になった、
あらゆる年齢層の(若いのやら、中年やら)人たちと、
おしゃべりを楽しんだり、
宿の主人のお仕事のお供をしたり、
のんびり、ゆっくりの、ポカラ的な毎日を、
堪能しているようだった。

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私はもっぱら、仕立て屋さん通いをしていた。
布を選んで、お気に入りの形に、いくつか縫ってもらった。
うふふ。服を新調するなんて、○年ぶりだろうか?
約20年前にポカラで買ったスカートは、
何年か前には、チュニックにリフォームして、
擦り切れるくらいに着ているが、いまだ現役。
今回作ってもらった服も、きっと10年20年着ることになるかな。
きっと、そうなるだろう。
だから、頑丈に作ってね!大切に着るから。
と、テーラーのムンさんに、お願いした。

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